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子どもや福祉のこと、世の中の色々について思うこと

津久井やまゆり園事件に思うこと

 お久しぶりです。色々と他にやることがあって、1年以上更新していなかったのですが、最近発信したいことが山ほどあるので、少しずつまた更新していこうと思っています。

 近況を報告しておくと、4月から某県の職員として採用され、現在は障害者支援施設の入所部門で身体障害者の生活支援をしています。児童相談所か福祉事務所への配属を希望していたのに、変則勤務の典型的な福祉現場に配属され、当初は戸惑いました。しかし、新採は3年で他課所へ異動となるので、若いうちに下積みを経験しておくことも必要と思い、腹を括って今の職場で働くことにしました。最近は仕事にも慣れ、何とか頑張っています。残業はほぼ無く、上司と先輩もほとんどは良い人なので、比較的ホワイトな職場ではありますが、対人援助には正解が無く、自身の経験と人格形成の未熟さを痛感させられることは多々あります。そういう意味では大変な仕事です。

 僕が勤める施設に入所している利用者は7割強が脳卒中の後遺症による四肢麻痺高次脳機能障害、残りが脊髄損傷や脊髄疾患による麻痺といった障害で入所しています。平日の日中は自立訓練や就労移行支援を受けているので、訓練の合間の時間や夜間に入浴・食事・排泄といった生活に関わる支援や相談をおこなっています。こう書くと、介護職のように思われるかもしれませんが、僕の働いている施設ではあくまでリハビリによる家庭復帰・社会復帰を目指しているので、入所者が自分のことを自分でできるようにすることや、地域の中で周囲の人々の助けを借りながら生活していく上で欠かせないコミュニケーション面の支援を中心におこなっています。

 さて、ここから表題の話に入っていきたいのですが、今回の事件は世間一般における障害者に対する「想像力の欠如」が顕在化した事件だったと思います。ちなみに、あの犯人がどういう人物だったのかは結局よくわからないですし、犯人である元職員を非難し続けたところで今後に生かさせる教訓は何もないだろうと僕は思います。しかし、「障害者なんていなくなればいい」とまでは行かなくても、障害者を無意識のうちに差別し、社会から排除している人々は意外と多いのだろうと感じます。どんなに、学校で障害者に関する勉強をしても、それこそ、福祉を専門的に勉強したとしても、「自分が障害者だったら」、「家族や恋人が障害者だったら」、「明日障害者になったらどうするか」といった想像をリアルにすることをとても難しいことだからです。

 今どき、子どもでも障害者に対して露骨な差別(暴言を吐くなど)はほとんどしないだろうと思います。学校でそう教えられているからです。でも、それは配慮や想像以前の問題の話で、健常者には想像しきれない障害者の苦難は実際には山ほどあるわけです。また、障害を持つ人自身も大変しんどい思いをして暮らしているわけですが、その家族も本人と同じくらいしんどい思いをしているはずです。だからこそ、今回の事件は、家族の思いや願いをも否定されるような出来事だったに違いないと思います。

 例えば、脊髄損傷者は体温調節や排泄のコントロールがうまくできません。頸髄損傷の場合は手を動かすことは出来てもキャップを開けたり蛇口をひねったりという動作はできません。だから、脊髄損傷の人は暑い日には健常者よりも熱中症や脱水症状のリスクが非常に高いですし(室内であっても)、外出時にはこまめにトイレに行って導尿をしておかないと失禁のリスクもあります。また、頸髄損傷の人にペットボトルのお茶をそのまま渡しても飲めませんし、大きい声が出せないので、電話口で頚損者に「聞き取れないからもっと大きな声で話してよ」というのはとても失礼なことです。実は、これらは全て僕が今の職場で働き始めてから犯した失敗です。

 社会的な障壁に関して言うと、身体障害者が行ける場所というのはまだまだ非常に限られています。有名な観光地でも、エレベーターやスロープは一部しか設置されていないことが多いです。この前もとある入所者が、「友人と温泉に旅行に行ったら車椅子の人なんて自分以外には誰もいなかった。障害者は外に出ちゃいけないのかな。」と話していました。外に出ちゃいけないなんて誰も言いはしませんが、実際にはそれが現実なのです。就労に関しても、身体・知的・精神問わず、就労移行支援を通して一般就労に繋げることはうまく条件が揃わないと難しいのが現状です。たった2%の障害者枠でさえ、企業はなかなか採りたがらないのです。また、就労継続支援事業所はあくまで障害福祉サービスとしておこなわれているため、障害者が自立して生活できるだけの工賃はもらえません。酷い話ですが、知的障害発達障害を持つ従業員を違法な低賃金で働かせたり、パワハラやセクハラが日常的におこなわれている事業所も未だに存在するようです。

 そして、障害者の家族が抱える困難もまた、我々の想像が及ばない壮絶なものです。受障をきっかけに、離婚したり、家族が鬱になったり、最悪の場合自殺や一家心中というケースもあります。昔は(今もあるのかもしれませんが)、障害児を生んだ母親は周囲から責められたそうです。今でも、障害を持つ人にとって結婚や出産は周囲の反対で難しいというケースが少なくないようです。きっと、自分たちまで差別されかねないという意識が働くのでしょう。そもそも、障害者が地域の中で周囲の人々の助けを得ながら自立して生活するというモデルが今の日本ではまだ確立しておらず、家族の負担が物理的に経済的にも大変重いという現状が、こうした悲劇を生むのだろうと思います。

 こういう話をすると、「そうは言っても、障害者なんか雇っていたら中小企業はすぐ潰れるし、知的障害者精神障害者は公共の場で周囲に迷惑を掛けるじゃないか。」「行政や福祉に携わる人間は、障害者とは関係ない普通の人のことも考えろ。そういう人に税金を投入し続けてもきりがない。大変なのは障害者だけじゃないんだ。」という人がいます。じゃあ貴方は絶対事故にあったり病気になったりしないのですか、絶対に障害児を産まないのですかと言いたいです。

 いま、自分が健常者で、身近にも障害者がいなかったとしても、自分や周りの人が障害者にならない保証はどこにもないわけです。事故や病気で障害者になった人でさえ、未だに自分が障害者になってしまったという事実を受け入れられないことが多いのですから(「障害受容」については後日別の記事で書きます)、ましてや健常者の我々が「障害のある暮らし」を想像することは非常に難しいです。しかし、想像力の欠如が知らず知らずのうちに差別や排除に繋がっているわけで、ただでさえ意思伝達や行動が思い通りに行かない中で障害者は更に傷ついているのです。社会的な障壁は一人一人の力ではなかなか取り除けませんが、「自分や周りの人が障害児者だったら」「障害のある暮らし」に対する想像力を健常者の我々がもう少し高められれば、「障害者なんていなくなればいい」という発想はこの世から無くなるはずです。

 目が見えないことや耳が聞こえないことへの不安。一生懸命勉強しても、いつまで経っても理解が進まず、周囲の友達から取り残されてしまう焦りや苛立ち。人の気持ちがわからず、他人が期待するような受け答えが出来ず、周りに上手く溶け込めないという孤独感。こうした気持ちは当事者になってみないとわからないのかもしれません。でも、障害当事者の書いた本を読んだり、講演を聞いたり、実際に車いすアイマスクを使って体験してみるだけでも、自分に欠けている想像力を少しでも補うことができるのではないかと思います。

 大変なのは障害者だけではない、というのは確かに間違ってはいません。貧困や虐待、DV、親の介護、いじめなどで困っている人も沢山います。福祉の対象にはならない深刻な問題を抱えている人もいるでしょう。だからこそ、しんどさを分かち合うための想像力が必要なのではないしょうか。

角筈にて

最近、一日中何もやる気が起きず、夜寝る前になると自己嫌悪で眠れなくなるという日々が続いています。こうして時間だけが無駄に過ぎていきますね。
さて、久しぶりにブックレビューを書こうかなと思います。まあブックレビューという程のものでもなく、短編小説を1つ紹介しつつ僕の感想を書き連ねるだけではありますが。www.amazon.co.jp
今回僕が扱うのは、『鉄道員』ではなく、この本に収録されている『角筈にて』という短編です。角筈というのは、かつて新宿区(昭和22年までは淀橋区)にあった地名で、今の西新宿と歌舞伎町の一部、つまり新宿駅近辺一帯に付けられていた地名のようです。数年前に一度ドラマ化したことがあり、公式サイトがまだ残っているので、あらすじをサイトから引用します。www.bs-j.co.jp

貫井恭一49歳。東大を卒業し、一流商社に就職、一貫してエリートの道を歩んできた彼には大きな転機が訪れようとしていた。上司が派閥抗争に破れ退陣を余儀なくされたのに伴い、腹心の恭一もブラジルへの左遷が決まってしまう。役員昇進を目前にしての仕事で挫折。恭一の身の上を案じる部下たちと酒を飲んでの帰り、恭一は若いころに通いつめた角筈ゴールデン街に1人、立ち寄る。午前1時を回り表に出ると、目の前を女子高生が中年サラリーマンと連れ立ってラブホテルに入っていくところを目撃してしまう。通勤時に見かける女子高生、未来の後を慌てて追いかけた恭一は、彼女の父親だと偽り寸前のところで援助交際をやめさせるが、未来には理解されない。実は恭一のこの行動には理由があった。
またいとこの久美子と結婚したものの、父親になる自信を持てずにいた恭一は、若さや仕事を理由にせっかく授かった子どもを中絶させてしまう。この時のことが原因で恭一夫婦は二度と子どもを持つことが出来なくなった。「もし、あの時の子どもが生まれていたら、丁度彼女ぐらいだろう…」そんな思いで恭一は未来を眺めていたのである。
父親になることを拒否してしまった恭一には、忘れたくても忘れることのできない過去があった。42年前、恭一8歳の夏。新宿・角筈のバス停で父に捨てられてしまう。母方の伯父一家に家族同様に迎えられた恭一だったが、諦めながらも心のどこかで父親が迎えに来てくれることを信じていた。しかし、いっこうに現れない父…。自分の家の表札の横に「貫井恭一」という手作りの表札を掲げてくれた伯父。東大の合格発表の時には、家族総出で本郷に来てくれた。そんな温かさの中で育ちながらも恭一は「父に捨てられた」という心の傷を持ち続けていたのである。出世が決まった同期・安岡と新宿で飲んだ帰り道、恭一は人ごみの中に「父」を見かける。慌てて追いかけるが、見失ってしまった。様々な思いが恭一の胸をよぎる…。帰宅し、早速久美子に報告するが「錯覚よ」との返事。恭一自身も長い月日が経っているため、確信が持てない。しかし、これをきっかけに恭一はそれまでの自分を振り返り始める。
そしてブラジルに旅立つ日。成田に向かう途中で立ち寄った新宿・花園神社の境内で、遂に父と出会う恭一。その父の姿は…。

この物語の主人公である恭一は父子家庭で育ち、その実父からも捨てられたわけですが、そうした逆境を乗り越えてエリート街道を歩んできたという点に関しては現代ではおよそ考えられないことだろうと思います。育ててくれた伯父夫婦も決して裕福ではなさそうですしね。勿論、あくまで小説ですし、この時代の方が格差や貧困は激しかったのも事実ですが、こうした「叩き上げのエリート」が社会に一定数存在する時代であったのも確かでしょう。現代の貧困家庭や社会的養護下の児童が置かれている状況を鑑みると、どん底から這い上がるだけのモチベーションはこの時代の方が生まれやすかったのかもしれません。また、父親になる自信がなくて妻である久美子を堕胎させた場面では、恭一の上昇志向の裏にある「捨て子であることへの劣等感」が顕著に現れているように思われます。恭一は伯父一家で家族同然に温かく迎えられましたが、伯父が敢えて恭一の姓を変えさせずにいたことで恭一は「父親がいつか迎えに来てくれるかもしれない」というかすかな期待を終生持ち続けることになったのではないかと思います。あらすじには「恭一は「父に捨てられた」という心の傷を持ち続けていたのである。」と書かれていますが、伯父が恭一を貫井姓のままで居させたことは、恭一を傷つけまいという伯父の優しさだったのではないでしょうか。
今でいえば、この伯父夫婦は「親族里親」であり(勿論この当時は手当などもらっていないでしょうが)、厳密に言えば「養親」ではないというのが、里親制度と結びつけて語る上での一つのポイントです。里親は、補助金を貰いながら里子を戸籍に入れることなく18歳まで育てることになっており、児童養護施設と共に社会的養護の一翼を担っています。一方で、養親は子どもを養子として戸籍に迎え入れ、名実ともに一生我が子として育てるのが前提です(里親と違って補助金は出ません)。里親制度と養子縁組制度のどちらが優れているのかというのはまさにケース・バイ・ケースではあるのですが、子どもが実親のことを覚えており、「いつか実親が迎えに来てくれる」という期待感を持っている限りは、実親以外の養護者を親として認めることは難しいのかもしれません(ステップファミリーで育った僕自身もそうです)。捨てられたり、虐待を受けたりしても、実親への思いというのはなかなか断ち切れないものです。子は親を選べませんからね。
最近、家族のあり方について考えることが多く、ついつい社会的養護と絡めて語ってしまいましたが、個人的には『鉄道員』よりも心に響いた作品なので、皆さん是非読んでみて下さい。

人との距離感

新社会人、新入生の皆さん、ご入職、ご入学おめでとうございます。僕も本来なら社会に出て、そろそろ後輩を迎えているはずなのですが、恥ずかしながら未だに学生です(←何やってるんですかねえ…)。
春と言えば、別れもあれば出会いもあるわけですが、人との関わりの中で多くの人が悩むのが「距離感」なのではないかと思います。人と円滑なコミュニケーションを取る上で、距離感と言うのは近すぎても遠すぎてもいけません。まあ、遠い分には全く害はないのですが、問題は距離感が無駄に近い人です。特に女性に多いのですが、そこまで親密な関係ではないはずなのに(それこそ初対面の場合も含めて)、やたらとボディタッチが多かったり、顔を近づけてきたりする人っていますよね。僕はそういうコミュニケーションが特に不快というわけではないのですが、しかし、違和感を感じるのは事実です。男というのは基本的にアホでバカで単純な生き物ですから、そういうコミュニケーションを取ってくる異性に対して、「あれ、この子は自分のことが好きなのかな?」と思ったりもするわけです(僕は極力そう思わないようにしていますが)。当の本人(距離感の近い女性)は特に相手に好意があるわけでなく、それが自然なコミュニケーションだと思っていることが多いようですが、それが原因でストーカー被害にあったり、最悪の場合性犯罪に巻き込まれるケースもあるので、人との距離感が近い女性と接していると時々心配になってしまいます。逆に、男性の方がある程度距離を置いて接すると、女性からしてみれば「この人そっけないな。私のことが嫌いなのかしら」と感じることも多いようです。つまり、相手に対する好意の程度はお互いに同程度だとしても、2人の持っている距離感が異なっている場合、相手にそのつもりはないのに「この人は自分に気があるのかも」と思ってしまったり、逆に「嫌われているのかな」と思ってしまったりするわけです。一般的には女性の方が距離感が近く、男性の方が距離感が遠い傾向があるような気はしますが、異性とのコミュニケーションにおいて僕が最も難しく感じているのはやはりこの「距離感」の問題です。
ちなみに僕は、自分の持っている距離感が特に近いとも遠いとも思いませんが、普通に接しているつもりなのに「そっけない」とか「人に興味が無さそう」とか言われることはよくあります。しかし、僕は比較的他人に興味や関心を示す方ですし、ある程度交流がある人達のことはちゃんと気にかけてはいます(今この記事を読んでいるあなたのこともちゃんと心配していますよ!)。それが伝わっていないとすれば、恐らくそれは僕の他者への距離が遠いからなのかもしれません。少なくとももっと愛想を良くしたり、こちらからまめに連絡したりした方がいいような気はしています。そもそも、それは「距離感」以前の問題なのかもしれませんが、何にせよこちらが相手に関心や好意があるのにそれが伝わらないというのはとても残念なことなので、それが伝わるように努力したいと思っています(何か良い方法が他にあったら教えてください!)

負の感情の連鎖を断ち切る為に

中学生の男子生徒が高校生に殺害されるという痛ましい事件が起こり、この事件に関する報道が日々過熱しています。こうした事件が起こる度に出てくるのが、「少年法を廃止しろ!」とか「犯人を死刑にしろ!」といった意見で、SNS等で個人が気軽に意見を発信できるようになった今日では、そうした論調がより目につきやすくなったように感じます。
こうした事件が起こること自体が実に悲しいことではあるのですが、犯人を死刑にすればそれで全てが解決するのか、少年法を廃止にすれば凶悪な少年事件が無くなるのかというと全くそうは思いません。被害者と加害者という対立軸だけを意図的に強調し、加害者を徹底的に攻撃することが正義だという風潮に僕は苛立っています。
犯罪加害者(特に非行少年)は、その人自身が精神面ないし環境面で何らかの問題を抱えています。勿論、それを理由に、「加害者側にも色々事情があるのだから大目に見てやってよ」と言うつもりは毛頭ありません。加害者には、他人の命を奪った以上、死ぬほど自分と向き合い、被害者が生きられなかった人生の価値の重さを一生をかけて背負っていく義務があると思います。ただ、事件の背景にある事情を一切考慮せずに、いかに加害者を罰するかという論点だけで議論をしても、誰も救われないと思います。
少年法があるから非行少年が凶悪な犯罪を起こす」なんてことを言う人がよくいますが、そもそもそんな合理的な判断ができる子は犯罪という非合理的な行動には出ません。もし日本における極刑が火あぶり刑や釜茹で刑だったとしても、凶悪犯罪を起こす人は起こします。負の感情をうまくコントロールできなくなった人間は、理性だけで行動を抑えることはできないからです。そして、そうした負の感情が自力でコントロールできない程に増幅してしまうのは、結局のところ環境への不適応であったり、周囲の人間との軋轢といったものが積み重なった結果ではないのかと思います。
そうした負の感情の連鎖が悲劇を生んだ事件として以下のようなものがあります。

北海道南幌町で1日未明、高校2年の女子生徒(17)が祖母(71)と母(47)2人を殺害したとされる事件で、殺人容疑で逮捕された女子生徒が「しつけが厳しく、今の状況から逃れたかった」と供述していることが2日、道警栗山署への取材で分かった。2人には首や頭など複数カ所に刺し傷や切り傷があり、同署はしつけに対する強い恨みが殺害の動機とみて捜査している。
同署によると、司法解剖の結果、2人の死因はいずれも出血性ショックだった。祖母は2階、母は1階の寝室で殺害され、祖母には頭や背中など十数カ所に傷があり、争った形跡があった。母は首に深い切り傷があった。女子生徒は祖母、母、姉(23)の4人暮らしで、寝室は母と同じだった。
近所の住民によると、女子生徒は夕方になると走って帰宅する姿が目撃されており、「門限が厳しく、時間を守らないと怒られる」と漏らしていたという。
岩見沢児童相談所によると、女子生徒が幼稚園児だった2004年2月、家庭内で虐待を受けているとの通報があった。児童福祉司が身体的虐待の痕があることを確認し、児童福祉法に基づく指導措置を決定。同年11月まで自宅の訪問や面談を重ね、「虐待が再発する心配はない」と判断し措置を解除した。その後、虐待の通報はなかったという。
女子生徒が通う高校は2日朝、全校集会で事件の概要を説明した。スクールカウンセラーを配置し生徒の心のケアに努めるという。【三股智子、野原寛史、日下部元美】
毎日新聞 10月2日(木)11時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141002-00000024-mai-soci

この事件では、日頃は加害者叩きに躍起な保守系のメディアでさえ加害者少女に同情的な報道をしていたのが印象的でした。ただ、この事件に限らず、少年非行の背景には、学校で孤立していたり、保護者から虐待を受けていたり、人間関係や家庭環境に何らかの問題が存在することが多いです。少年自身が内面的な問題を抱えている場合であっても、そうした問題に対する周囲の無理解が少年の負の感情を暴発へと向かわせてしまった結果、悲劇を生んでしまうことが多いです。
もっと言うと、非行少年が負の感情を増幅させてしまう背景には、地域性(例えば、貧困地区では犯罪が多いです)や周囲の人が抱えている問題(少年の親自身が不適切な環境で育っていたり、虐めてくる人間が内面や環境面に何らかの問題を抱えているケースなど)など複合的に絡み合っていることも多々あるでしょう。そして、そうした「憎しみ」や「怒り」が連鎖して行きつく先に、逸脱や非行、更には凶悪犯罪が存在するのだと思います。しかし、そうした負の感情が連鎖した結果として存在する凶悪犯罪に対して、加害者を憎み、非難し、制裁を加えるという行為もまた、そうした負の感情の連鎖の一部なのではないのかと僕は思ってしまうのです。負の感情に更に負の感情をぶつけるだけではこの世の中の生きづらさは何一つとして解決しない気がします。
悲劇を繰り返さないようにする為に出来ることは、負の感情をぶつけ合うことではなく、身近なところから少しでも「生きづらさ」を取り除いていくことなのではないでしょうか。社会全体の取り組みとして貧困や虐待、いじめなどを社会から撲滅することは勿論、犯罪や非行の入り口にある「生きづらさ」に周囲の人間が気づき、その「生きづらさ」を感じている人の身になって考えたり行動して、負の感情が行き場を失う前にそれを受け止めるということが必要なのではないかと思います。
僕自身も、子どもの頃から、人間関係や家庭環境の中で多くの「生きづらさ」を感じてきました。負の感情を自力でコントロールできなくなった結果、周囲の人を傷つけたことも沢山ありました。自分が犯した過ちの中には墓場まで持っていかなければならないような話もありますが、運良く社会から大脱線することなく生きてこられた結果、今は何とかやっています。これからは、自分がかつて抱いていた(今も感じてはいますが)「生きづらさ」を世の中から少しでも取り除き、より多くの人が被害者にも加害者にもならずに生きていけるような社会を作っていきたいと思います。

差別と偏見

世間ではチョコレートの販促キャンペーンが盛んに行われている今日この頃ですが、チョコレートを食べると太るしニキビができるので僕はいりません。それはさておき、最近気になったニュースが2つほどあったので、言及したいと思います。
まず1つ目。渋谷区で同性愛カップルに結婚並み証明書が発行されるようになったそうです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015021202000140.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015021202000140.html
これは良い試みだと思います。日本でもLGBTへの理解が少しずつ進んではきましたが、依然として同性愛者への偏見は残っており、多くの場合「オカマ」や「ホモ」という言葉は侮蔑の意味を込めて使われています。特に同性愛者への差別意識は年代に比例して高くなっているようです。一方で、近年では日本における若者の同性愛への寛容度は先進国の中でも高めになってきているようです。
http://tmaita77.blogspot.jp/2015/02/blog-post_15.html
データえっせい: 同性愛への寛容度の国際比較
恐らく、LGBTへの理解が進んだというよりは、他人の価値観に干渉するべきでないという考え方が一般的になったという消極的な寛容性が高まった結果なのでしょうが、悪い傾向ではないでしょう。理解してくれと一方的に押しつけるのも考え物ですし、LGBT運動がそうした「理解の押しつけ」をしなかったことが却って良い結果を生んだのかもしれません。
一方で、こんな出来事もありました。曽野綾子氏コラムに「アパルトヘイトを賛美し、首相に恥をかかせる」海外メディア報じる
安倍首相がこの一件を「恥」と思うかどうかは別として、僕は同じ日本人として恥ずかしいことだと思います。とはいえ、このような考え方の大人は意外と多い気がします。50代以上で且つ教育レベルがあまり高くない人々には部落差別や在日差別、同性愛者差別を是とする風潮が依然としてありますし、うちの母や祖父母などはまさにそういう考えの人達でした。僕も母に「同和地区出身者とだけは結婚するな」と言われたことが何度かありますし、在日韓国人の友人の話をすると大抵渋い顔をされました。
僕は差別を是としませんし、差別的な発言には必ず反論するようにしていますが、世代によって育った時代背景や価値観が異なるのもまた事実であり、ただ単に「差別はやめましょう」と言ったところでそう簡単に差別意識と言うのは消えないものです。というのも、差別が今よりも激しかった時代には、被差別者の置かれている環境は当然今よりも劣悪で、人々から奇異な目で見られるようなことをしたり、犯罪を犯したりする人も今よりは多かったからです。実際に、高度経済成長期には朝鮮学校の生徒が近所の中高生をカツアゲしたり、同和関係者が恐喝行為を起こすということが実際に行われていたようです。なので、この時代に育った人は、どんなに差別が悪だと頭では理解しても、根底には差別意識がいつまでも残り続けるのだろうと思います。また、この時代においては、被差別者自身が発信の仕方を誤った結果、自ら差別を助長してしまった部分もあったのかもしれません。受容や理解を押しつけたところで、相手からは反感を買うだけですしね。
差別や偏見の解消にあたって一番重要なことは、結局のところ、お互いの価値観を相手に押しつけない、即ち相手の身になって考えることなのではないかと思います。相手がどんな気持ちで生きてきたのかということがわかれば、自然と相手を受け入れられるようになるのではないでしょうか。

明日の子供たち

最近あまり本を読んでいないのですが、半年くらい前に読んで感想をシェアしようと思ってそのままになっている本があるので今日はその本について書こうと思います。


明日の子供たち | 株式会社 幻冬舎

丁度実習に行く前のタイミングで本屋に平積みされていたので、衝動買いしてそのまま徹夜で読んだ記憶があります。

児童養護施設を舞台にした話と言えば、古くは『タイガーマスク』、最近ではドラマの『明日ママがいない』などが有名だと思います。ちなみに『明日ママがいない』は施設出身者や施設職員からすると有り得ない話ばかりだそうです。実際に僕が児童養護施設で実習をした経験からしてみてもあのドラマはあまりに荒唐無稽だと思います。

『明日の子供たち』は例のドラマを観たとある女子高生からの手紙を読んだ作者が、児童養護施設の子ども達の等身大の姿を世に伝えるために書いた本だそうです。実際に物語の中にもその女子高生をモデルにした人物が登場しています。あらすじについては割愛させてもらいたいのですが、大雑把に言うと新米の職員が子ども達に距離を置かれたり、上司である副園長と対立しながら、徐々に子ども達と心を通わせるようになるというよくありそうな話です。ここから先は僕なりの感想を書いていこうと思います。

まず、基本設定については現実にかなり忠実だと思います。子どもの入所背景(約2/3が虐待や育児放棄によるもの)は勿論、入所したばかりの子どもの試し行動などは現実の通りですし、施設の子は高校生にならないと携帯を持たせてもらえず、料金も自分のバイト代で払わなければならないというのもまさに多くの施設に見られることです。強いて言うならば、『明日の子供たち』に出てくる施設は大舎制といって一つの建物に数十人の子が集団生活をしている、世間一般の人が想像しているような典型的な古い児童養護施設なのですが、最近では小舎制(建物をアパートのような構造にして一つのユニットに8人の児童が暮らす施設)や、グループホーム(普通の一軒家に児童6人が暮らす形態の施設)といったより家庭的な環境に近い施設も増えてきているので、作者の有川さんが取材にいった施設はどちらかというと旧時代的な児童養護施設であるような気はします。

次に、職員と子どもの関係ですが、限りなくヨコの関係に近い施設もあれば、タテの関係に近い施設もあるのでこの辺りは何とも言いにくいです。一般的に、閉鎖的な施設ほど職員が児童に対して縦型の指導を行なっている傾向はあると思いますが。まあ若手の職員ほど子どもと対等な関係を築きやすいとは思いますし(それだけナメられやすいということにもなりますが)、ベテランの職員には子どもの方も逆らいにくいのではないかと思います。職員同士の力関係を子ども達はちゃんと把握していますしね。ただ、この本を読んでいて少し疑問に思ったのは、施設の子は現実にはそこまで大人びてはいない気がするという点です。勿論、相手の腹を探るのが上手い子もいなくはないですが、実際には普通の子よりも情緒面の発達が遅れている子が多いです。「普通の家庭」を経験していない子は、施設に入った当初は人との距離感の取り方や感情調節、基本的な生活習慣などが全く身についていませんし、高校生くらいになってもそれらが上手くできない子は沢山います。この物語に出てくる高校生のように、相手の心の機微を汲み取ったり、言葉の裏を読んだりできるような子はそうそういません。まあこの辺りは小説なのでしょうがないと言えばしょうがないわけですが。

ここまで書いてみて、感想と言うよりは、実際の児童養護施設と作中の描写を比較してツッコミを入れていただけになってしまった気はするのですが、有川さんがこの本の中で伝えたい「児童養護施設とそこで暮らす子ども達が抱える問題」というのは僕が考えているものと一致すると思います。それは何かというと、施設で育った子どもは18歳で自立をせざるを得ないという現実の中で、進学を選ぶにせよ就職を選ぶにせよ、子ども達を取り巻く現実は大変厳しいということです。

言うまでもないことですが、進学にはお金がかかります。そして、帰る家のない子は家賃も自分の力で稼がなければなりません。実際には7~8割の児童の親のどちらかは存命であることが多いのですが、実家に戻ったところで、学費を出してくれるどころかバイト代や給料を搾取されるのは目に見えています。そのような事情もあり、施設を出た児童の8割は高校卒業後にそのまま就職することが多いです。とはいえ、施設出身者の就職後の離職率は3年で7割近くに昇っており、就職したからといってうまくいくわけでもないようです。


自立支援の難しさ | Bridge For Smile(ブリッジフォースマイル)

上のリンクにもあるように、帰れる家が無く、信用できる大人や相談相手がいない中で自分一人で生きていくという状況は18歳の子にとってはあまりに過酷だと思います。ましてや、何年も施設で暮らしてきて、家庭で育った子よりも限られた経験や価値観しか持たない子がいきなり社会に出てもすぐに荒波に飲み込まれてしまうであろうことは想像に難くありません。そうして社会からドロップアウトしてしまった元養護児童の中にはホームレスになったり風俗で働くことになってしまう子もいるようです。

こうした問題を解決する為にはやはり家庭的な環境で育つことが必要だということで、里親委託の拡大を目指す動きがあるわけですが、里親に支援金が出るのは里子が18歳になるまでなので、養育家庭を増やしたところで社会的養護児童の自立に関する問題が根本的に解決するわけではない気はします。勿論、養育家庭には児童養護施設にないメリットがあるのも確かですが…。

自立と言う出口の問題へのアプローチとしては、養護児童向けのシェアハウスやBridge for smile(B4S)などのNPOによる支援活動が現時点では比較的うまく機能しているように感じます。僕もB4Sのカナエールというスピーチコンテストに観覧者として参加したことがありますが、聴衆に自分の想いを自分の言葉で伝えることによって募金と言う形で奨学金を集めるシステムは、今までの「おこぼれ」的な支援とは一線を画する画期的な支援のあり方だと思います。

社会的養護児童が多くの課題を抱え、「支援」を必要としているのは紛れもない事実ではありますが、僕たちが間違えてはいけないのは、彼らは決して「かわいそう」な子ども達ではないということです。自分の置かれた厳しい環境の中で未来を自力で切り拓いていく為に頑張っている子ども達を「かわいそう」と形容するのはあまりにも失礼なことではないでしょうか。僕たちができることは彼らに対する「同情」や「憐憫」ではなく、人生における様々な困難や悲しみを共有し、そして喜びや幸せを共に求める「仲間」として、一緒に手を握り合って生きていこうという「共感」ではないかと僕は思います。

会話における思わぬ地雷

遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

さて、今日はコミュニケーションの基礎である「会話」における難しさについて考えてみました。

僕は人と話すのが嫌いではないし、話を聞くのは好きなのですが、実際に他者と会話をするのはなかなかエネルギーを使うものです。僕にはこれといった趣味がなく、テレビもほとんど観ないので共通の話題が無い人とは何を話せばいいのかわからなくなることがよくあります。他者との関係構築においては自己開示が重要であるとはよく言われますが、自分の情報について延々と語ったところで必ずしも相手とのラポールが形成させるわけではないのもまた事実です。ヤンチャそうな男子高校生や男子大学生なら下ネタをぶっこんでおけば何とかなることも少なくはないのですが、大人しめの中高生や女の子とアイスブレイクをするのは結構難しいです。それでも、たまたま好きな漫画や音楽が被ることがあって話が盛り上がることは無きにしもあらずではありますが…。

まあ何にせよ、アイスブレイクの難しさに関してはどうしようもない部分が大きいので、実際に他人と会話をする上で自分が気をつけていることについて書こうと思います。
世間一般で会話におけるタブーとされている話題は政治や宗教、学歴に関する話題であるとされていますが、仲の良い友人同士であればその手の話題は日常的に出てくるので相手によると言えるでしょう。
他には、経済状況や容姿、家庭のことなどもこちらから聞くのは憚られる話題ではあります。実際にこの手の話題はかなり仲の良い友人でも突っ込んではいけない場合が多々あると思います。就職の面接でも家族構成は聞いてはいけないことになっていますしね(実際には平気で聞いてくる企業もあるようですが)。

実際に会話をする中で「君の家の年収はいくら?」とか「髪が薄いですね」などと言ってくる人間がいたら相当不愉快ですし、普通の人はまずそういうことを直接聞いては来ないのですが、間接的に地雷を踏んでくる人間はたまにいるし、もしかしたら自分もそういった地雷を良く踏んでいるのかもしれません。
例えば、僕の苗字は比較的珍しいので年配の人から「お父さんはどちらの出身?」と聞かれることが多いのですが、僕はこういう質問をされるのが結構不愉快です。自分の苗字は母が再婚相手である義父の姓であり、そして僕は義父のことを父親だと思っていないので、そもそも自分の苗字の話題を出されること自体が嫌なのです。もっと言うと、もし僕が里親家庭や児童養護施設の出身だったらその質問をしてきた人はどうするつもりなんだろうと思います。勿論、その質問をしてきた人には悪意はないし、その世代の人間にとっては実の父親の苗字を名乗ることは当たり前のことなので、しょうがないことではあるのですが。
また、僕も今まで全く気づかなかったことではあるのですが、ゲイやレズビアンの人にとって「彼氏(彼女)はいないの?」という質問は大変傷つくものらしいです。パートナーは異性であることを前提とした質問は同性愛者の存在を否定するものであるからだそうです。僕はこの話を聞いて、自分にとっての当たり前を無意識に他人に押しつけてはいないかと深く考えさせられました。こういう場合には「付き合っている人はいないの?」と聞くのがベストだったのかもしれません。

このように、自分は自分なりの常識の範囲で話題を選んでいるつもりでも、その常識を無意識に相手に押しつけてしまったばかりに「地雷」を踏んでしまうということがあります。そして、地雷を踏んでしまったばかりに苦労して築いたラポールが一瞬にして壊れてしまうことも少なくないのだろうと思います。だからこそ、他者と関わる際には常識や場の空気を考慮するだけでなく相手の身になって話題を選ぶことが大事なのだろうと思います。自分も気をつけないと…。