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子どもや福祉のこと、世の中の色々について思うこと

負の感情の連鎖を断ち切る為に

中学生の男子生徒が高校生に殺害されるという痛ましい事件が起こり、この事件に関する報道が日々過熱しています。こうした事件が起こる度に出てくるのが、「少年法を廃止しろ!」とか「犯人を死刑にしろ!」といった意見で、SNS等で個人が気軽に意見を発信できるようになった今日では、そうした論調がより目につきやすくなったように感じます。
こうした事件が起こること自体が実に悲しいことではあるのですが、犯人を死刑にすればそれで全てが解決するのか、少年法を廃止にすれば凶悪な少年事件が無くなるのかというと全くそうは思いません。被害者と加害者という対立軸だけを意図的に強調し、加害者を徹底的に攻撃することが正義だという風潮に僕は苛立っています。
犯罪加害者(特に非行少年)は、その人自身が精神面ないし環境面で何らかの問題を抱えています。勿論、それを理由に、「加害者側にも色々事情があるのだから大目に見てやってよ」と言うつもりは毛頭ありません。加害者には、他人の命を奪った以上、死ぬほど自分と向き合い、被害者が生きられなかった人生の価値の重さを一生をかけて背負っていく義務があると思います。ただ、事件の背景にある事情を一切考慮せずに、いかに加害者を罰するかという論点だけで議論をしても、誰も救われないと思います。
少年法があるから非行少年が凶悪な犯罪を起こす」なんてことを言う人がよくいますが、そもそもそんな合理的な判断ができる子は犯罪という非合理的な行動には出ません。もし日本における極刑が火あぶり刑や釜茹で刑だったとしても、凶悪犯罪を起こす人は起こします。負の感情をうまくコントロールできなくなった人間は、理性だけで行動を抑えることはできないからです。そして、そうした負の感情が自力でコントロールできない程に増幅してしまうのは、結局のところ環境への不適応であったり、周囲の人間との軋轢といったものが積み重なった結果ではないのかと思います。
そうした負の感情の連鎖が悲劇を生んだ事件として以下のようなものがあります。

北海道南幌町で1日未明、高校2年の女子生徒(17)が祖母(71)と母(47)2人を殺害したとされる事件で、殺人容疑で逮捕された女子生徒が「しつけが厳しく、今の状況から逃れたかった」と供述していることが2日、道警栗山署への取材で分かった。2人には首や頭など複数カ所に刺し傷や切り傷があり、同署はしつけに対する強い恨みが殺害の動機とみて捜査している。
同署によると、司法解剖の結果、2人の死因はいずれも出血性ショックだった。祖母は2階、母は1階の寝室で殺害され、祖母には頭や背中など十数カ所に傷があり、争った形跡があった。母は首に深い切り傷があった。女子生徒は祖母、母、姉(23)の4人暮らしで、寝室は母と同じだった。
近所の住民によると、女子生徒は夕方になると走って帰宅する姿が目撃されており、「門限が厳しく、時間を守らないと怒られる」と漏らしていたという。
岩見沢児童相談所によると、女子生徒が幼稚園児だった2004年2月、家庭内で虐待を受けているとの通報があった。児童福祉司が身体的虐待の痕があることを確認し、児童福祉法に基づく指導措置を決定。同年11月まで自宅の訪問や面談を重ね、「虐待が再発する心配はない」と判断し措置を解除した。その後、虐待の通報はなかったという。
女子生徒が通う高校は2日朝、全校集会で事件の概要を説明した。スクールカウンセラーを配置し生徒の心のケアに努めるという。【三股智子、野原寛史、日下部元美】
毎日新聞 10月2日(木)11時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141002-00000024-mai-soci

この事件では、日頃は加害者叩きに躍起な保守系のメディアでさえ加害者少女に同情的な報道をしていたのが印象的でした。ただ、この事件に限らず、少年非行の背景には、学校で孤立していたり、保護者から虐待を受けていたり、人間関係や家庭環境に何らかの問題が存在することが多いです。少年自身が内面的な問題を抱えている場合であっても、そうした問題に対する周囲の無理解が少年の負の感情を暴発へと向かわせてしまった結果、悲劇を生んでしまうことが多いです。
もっと言うと、非行少年が負の感情を増幅させてしまう背景には、地域性(例えば、貧困地区では犯罪が多いです)や周囲の人が抱えている問題(少年の親自身が不適切な環境で育っていたり、虐めてくる人間が内面や環境面に何らかの問題を抱えているケースなど)など複合的に絡み合っていることも多々あるでしょう。そして、そうした「憎しみ」や「怒り」が連鎖して行きつく先に、逸脱や非行、更には凶悪犯罪が存在するのだと思います。しかし、そうした負の感情が連鎖した結果として存在する凶悪犯罪に対して、加害者を憎み、非難し、制裁を加えるという行為もまた、そうした負の感情の連鎖の一部なのではないのかと僕は思ってしまうのです。負の感情に更に負の感情をぶつけるだけではこの世の中の生きづらさは何一つとして解決しない気がします。
悲劇を繰り返さないようにする為に出来ることは、負の感情をぶつけ合うことではなく、身近なところから少しでも「生きづらさ」を取り除いていくことなのではないでしょうか。社会全体の取り組みとして貧困や虐待、いじめなどを社会から撲滅することは勿論、犯罪や非行の入り口にある「生きづらさ」に周囲の人間が気づき、その「生きづらさ」を感じている人の身になって考えたり行動して、負の感情が行き場を失う前にそれを受け止めるということが必要なのではないかと思います。
僕自身も、子どもの頃から、人間関係や家庭環境の中で多くの「生きづらさ」を感じてきました。負の感情を自力でコントロールできなくなった結果、周囲の人を傷つけたことも沢山ありました。自分が犯した過ちの中には墓場まで持っていかなければならないような話もありますが、運良く社会から大脱線することなく生きてこられた結果、今は何とかやっています。これからは、自分がかつて抱いていた(今も感じてはいますが)「生きづらさ」を世の中から少しでも取り除き、より多くの人が被害者にも加害者にもならずに生きていけるような社会を作っていきたいと思います。