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子どもや福祉のこと、世の中の色々について思うこと

津久井やまゆり園事件に思うこと

 お久しぶりです。色々と他にやることがあって、1年以上更新していなかったのですが、最近発信したいことが山ほどあるので、少しずつまた更新していこうと思っています。

 近況を報告しておくと、4月から某県の職員として採用され、現在は障害者支援施設の入所部門で身体障害者の生活支援をしています。児童相談所か福祉事務所への配属を希望していたのに、変則勤務の典型的な福祉現場に配属され、当初は戸惑いました。しかし、新採は3年で他課所へ異動となるので、若いうちに下積みを経験しておくことも必要と思い、腹を括って今の職場で働くことにしました。最近は仕事にも慣れ、何とか頑張っています。残業はほぼ無く、上司と先輩もほとんどは良い人なので、比較的ホワイトな職場ではありますが、対人援助には正解が無く、自身の経験と人格形成の未熟さを痛感させられることは多々あります。そういう意味では大変な仕事です。

 僕が勤める施設に入所している利用者は7割強が脳卒中の後遺症による四肢麻痺高次脳機能障害、残りが脊髄損傷や脊髄疾患による麻痺といった障害で入所しています。平日の日中は自立訓練や就労移行支援を受けているので、訓練の合間の時間や夜間に入浴・食事・排泄といった生活に関わる支援や相談をおこなっています。こう書くと、介護職のように思われるかもしれませんが、僕の働いている施設ではあくまでリハビリによる家庭復帰・社会復帰を目指しているので、入所者が自分のことを自分でできるようにすることや、地域の中で周囲の人々の助けを借りながら生活していく上で欠かせないコミュニケーション面の支援を中心におこなっています。

 さて、ここから表題の話に入っていきたいのですが、今回の事件は世間一般における障害者に対する「想像力の欠如」が顕在化した事件だったと思います。ちなみに、あの犯人がどういう人物だったのかは結局よくわからないですし、犯人である元職員を非難し続けたところで今後に生かさせる教訓は何もないだろうと僕は思います。しかし、「障害者なんていなくなればいい」とまでは行かなくても、障害者を無意識のうちに差別し、社会から排除している人々は意外と多いのだろうと感じます。どんなに、学校で障害者に関する勉強をしても、それこそ、福祉を専門的に勉強したとしても、「自分が障害者だったら」、「家族や恋人が障害者だったら」、「明日障害者になったらどうするか」といった想像をリアルにすることをとても難しいことだからです。

 今どき、子どもでも障害者に対して露骨な差別(暴言を吐くなど)はほとんどしないだろうと思います。学校でそう教えられているからです。でも、それは配慮や想像以前の問題の話で、健常者には想像しきれない障害者の苦難は実際には山ほどあるわけです。また、障害を持つ人自身も大変しんどい思いをして暮らしているわけですが、その家族も本人と同じくらいしんどい思いをしているはずです。だからこそ、今回の事件は、家族の思いや願いをも否定されるような出来事だったに違いないと思います。

 例えば、脊髄損傷者は体温調節や排泄のコントロールがうまくできません。頸髄損傷の場合は手を動かすことは出来てもキャップを開けたり蛇口をひねったりという動作はできません。だから、脊髄損傷の人は暑い日には健常者よりも熱中症や脱水症状のリスクが非常に高いですし(室内であっても)、外出時にはこまめにトイレに行って導尿をしておかないと失禁のリスクもあります。また、頸髄損傷の人にペットボトルのお茶をそのまま渡しても飲めませんし、大きい声が出せないので、電話口で頚損者に「聞き取れないからもっと大きな声で話してよ」というのはとても失礼なことです。実は、これらは全て僕が今の職場で働き始めてから犯した失敗です。

 社会的な障壁に関して言うと、身体障害者が行ける場所というのはまだまだ非常に限られています。有名な観光地でも、エレベーターやスロープは一部しか設置されていないことが多いです。この前もとある入所者が、「友人と温泉に旅行に行ったら車椅子の人なんて自分以外には誰もいなかった。障害者は外に出ちゃいけないのかな。」と話していました。外に出ちゃいけないなんて誰も言いはしませんが、実際にはそれが現実なのです。就労に関しても、身体・知的・精神問わず、就労移行支援を通して一般就労に繋げることはうまく条件が揃わないと難しいのが現状です。たった2%の障害者枠でさえ、企業はなかなか採りたがらないのです。また、就労継続支援事業所はあくまで障害福祉サービスとしておこなわれているため、障害者が自立して生活できるだけの工賃はもらえません。酷い話ですが、知的障害発達障害を持つ従業員を違法な低賃金で働かせたり、パワハラやセクハラが日常的におこなわれている事業所も未だに存在するようです。

 そして、障害者の家族が抱える困難もまた、我々の想像が及ばない壮絶なものです。受障をきっかけに、離婚したり、家族が鬱になったり、最悪の場合自殺や一家心中というケースもあります。昔は(今もあるのかもしれませんが)、障害児を生んだ母親は周囲から責められたそうです。今でも、障害を持つ人にとって結婚や出産は周囲の反対で難しいというケースが少なくないようです。きっと、自分たちまで差別されかねないという意識が働くのでしょう。そもそも、障害者が地域の中で周囲の人々の助けを得ながら自立して生活するというモデルが今の日本ではまだ確立しておらず、家族の負担が物理的に経済的にも大変重いという現状が、こうした悲劇を生むのだろうと思います。

 こういう話をすると、「そうは言っても、障害者なんか雇っていたら中小企業はすぐ潰れるし、知的障害者精神障害者は公共の場で周囲に迷惑を掛けるじゃないか。」「行政や福祉に携わる人間は、障害者とは関係ない普通の人のことも考えろ。そういう人に税金を投入し続けてもきりがない。大変なのは障害者だけじゃないんだ。」という人がいます。じゃあ貴方は絶対事故にあったり病気になったりしないのですか、絶対に障害児を産まないのですかと言いたいです。

 いま、自分が健常者で、身近にも障害者がいなかったとしても、自分や周りの人が障害者にならない保証はどこにもないわけです。事故や病気で障害者になった人でさえ、未だに自分が障害者になってしまったという事実を受け入れられないことが多いのですから(「障害受容」については後日別の記事で書きます)、ましてや健常者の我々が「障害のある暮らし」を想像することは非常に難しいです。しかし、想像力の欠如が知らず知らずのうちに差別や排除に繋がっているわけで、ただでさえ意思伝達や行動が思い通りに行かない中で障害者は更に傷ついているのです。社会的な障壁は一人一人の力ではなかなか取り除けませんが、「自分や周りの人が障害児者だったら」「障害のある暮らし」に対する想像力を健常者の我々がもう少し高められれば、「障害者なんていなくなればいい」という発想はこの世から無くなるはずです。

 目が見えないことや耳が聞こえないことへの不安。一生懸命勉強しても、いつまで経っても理解が進まず、周囲の友達から取り残されてしまう焦りや苛立ち。人の気持ちがわからず、他人が期待するような受け答えが出来ず、周りに上手く溶け込めないという孤独感。こうした気持ちは当事者になってみないとわからないのかもしれません。でも、障害当事者の書いた本を読んだり、講演を聞いたり、実際に車いすアイマスクを使って体験してみるだけでも、自分に欠けている想像力を少しでも補うことができるのではないかと思います。

 大変なのは障害者だけではない、というのは確かに間違ってはいません。貧困や虐待、DV、親の介護、いじめなどで困っている人も沢山います。福祉の対象にはならない深刻な問題を抱えている人もいるでしょう。だからこそ、しんどさを分かち合うための想像力が必要なのではないしょうか。