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子どもや福祉のこと、世の中の色々について思うこと

先輩の話

カタリバの授業では、スケッチブックを使って大学生や社会人の「先輩」が15分間で自分の経験を交えながら(時には泣きながら)熱く語り、高校生に対してメッセージを伝える時間があります。生徒向けには「先輩の話」として案内されますが、カタリバ内では「サンプリング」と呼ばれています。

カタリバそのものについてはググって調べて頂きたいのですが、キャスト(カタリバではボランティアスタッフのことをそう呼ぶ)である僕は一応サンプリングを持っており、今まで十数校の高校・大学で「先輩の話」をしたことがあります。僕の話は要約すると以下のような話です。

小学校~中学校時代 

運動が苦手でいつも周囲からバカにされていた。人の輪に入ったり空気を読んだりすることが苦手で、友達は少なかった。家庭環境もあまり良くはなく、母と再婚相手の義父は常に仲が悪かった。単に仲が悪いだけでなく、母はDVを受けていた。自分は直接暴力を受けることはなかったが、貯金を勝手に使われたり、理不尽なことで脅されたりすることが多かった。こんな大人にだけはなるなと母は言った。

自分に自信が持てず将来の夢も無かったが、周囲のバカな大人たちを反面教師と捉え、勉強だけは頑張った。バカにしてきた奴らを将来見返してやろうという思いもあった。

高校時代

努力の甲斐もあり、第一志望の高校に合格することができた。しかし、入学当初から成績は振るわず、1年生の終わり頃から卒業までは常に学年で下位5%以内だった。小中に比べると人間関係は良好であったが、恵まれた家庭に生まれ育った人が多い学校だったので、自分が通った公立小中学校に比べて感情調節が上手な人間が多いのは当然と言えば当然だった。スポーツの中で水泳だけは唯一人並みには出来たので水泳部に入ったが、部内では最下位だった。勉強もスポーツもできないリアルのび太君状態であった点では、小中学校よりも酷い状況だった。しかも、周りには小中学校受験を経験したエリートや親が大企業に勤めているような富裕層が多く、高校に入るまでの向上心は次第に消え失せ、その代わりに「どうせ自分のような貧乏人は偉くはなれないのだ」という諦めの気持ちの方が大きくなっていった。高2以降は出席日数はギリギリ、追試の常習犯というお荷物生徒でしかなく、授業中にわざと僕だけ当てないようにする先生もいた。

高校卒業後

プライドだけは高かったので、旧帝大早慶と言った有名大学のみを受験するも全敗。勉強に対するモチベーションは相変わらず低かったので、周囲には「浪人して頑張っている」と嘯き、実際にはニート同然の生活を送っていた。第一志望の高校に合格したという過去の(唯一の)成功体験にすがり、「自分は本当は出来る人間なんだ」と思い込んでいたが、如何せん成功体験がそれ以外には皆無で、努力をする習慣がほとんど無かった為に結局現状を変えることは出来なかった。

この時期に一番辛かったことは成人式に行けなかったことである。周りは皆、大学生活を謳歌したり就職して一生懸命働いている中、自分は何と情けない生活をしているのだろうか。自分のような穀潰しは粗大ゴミ同然だ。いや、ゴミはリサイクルできるが、二酸化炭素とウンコを排出する存在でしかない自分はゴミ以下であり、最早死んだ方がマシなのだ。そう思った僕は、毎日のように自殺の方法をネットで調べた。しかし、どんな方法でも「最後は苦しむ」と書いてあり、怖くて死ぬことが出来なかった。練炭自殺のサークルに入ろうと考えたこともあったが、そういったサークルに入るだけのコミュ力が無かった。つまり、自分は死ぬ勇気すらない人間なのだ。自分のことが本当に情けなく思えてきた。

だが、どうせ死ぬことすら出来ないなら答えは一つだ。生きるしかないのである。世の中には生きたくても生きられない人が沢山いる。生きることは権利ではない。義務なのだ。そして、どうせ生きるのなら、生きたくても生きることが出来ない人を救うために生きよう。死のうと思ったことのある自分だからこそ、与えられた人生をその為に使いたい。そう思った僕は医学部を目指すことにした。うちには金がないので勿論、国公立しか受けられなかったが、猛勉強を始めることにした。失敗しても命までは取られないのだから、挑戦してみようと思った。

勉強の甲斐もあって成績は伸びてきたが、医学部の壁は高かった。ついに合格することは出来なかった。でも、この時の自分は「頑張った」と胸を張って言うことができた。医学部には入れなかったが、「人の命を救うことは医者ではなくても出来る」と思い、別の学部で福祉の勉強をすることにした。

大学時代~現在

大学ではボランティアサークルに入った。今まで遠回りをして周囲に迷惑や心配をかけてきた自分はこれから人の役に立って社会に恩返しをしていかなければと思ったからだ。山谷という貧民街でホームレスの人々と「共同炊事」を行なったり、障害のある子の保育ボランティアをしたり、元非行少年に勉強を教えたりと、様々な活動をした。ただ、やっているうちに「自分は本当に人の役に立っているのだろうか」「ただの自己満足なのではないか」と思うようになってしまったのも事実である。「結局自分は役立たずのデクノボーなのではないか」と段々感じるようになった。

そんなある日、少年から「次はいつ来てくれるんですか!先生が来るようになってから勉強が楽しいです!」と言われた。保育をしている子のお母さんからも「この子は何も感じないように見えるけど、実は遊んでもらってすごく喜んでいるのですよ」と言ってもらえた。「自分のしていることは全く無駄ではないのだな」と少しづつ思えるようになってきた。

それからも僕はボランティアサークルやNPOで積極的に活動し、重要な役職やリーダーに就くようになった。責任のある立場になると周囲の仲間をまとめたり、難しい仕事を任されたりすることも多くなった。確かに大変だが、しかし昔の自分と比べるとかなり自信が湧いてきたように思う。これからの人生で失敗することも沢山あるかもしれないが、今の自分にとって失敗はそんなに怖いことではない。

昔の僕は、自分に自信が全く持てなかった。自信がないから、失敗するのが怖いから、「どうせ自分になんか」と思っていたから努力や挑戦をすることから逃げてきた。でも今の自分は違う。頑張っても挫折したりうまくいかなかったりしたこともあったけど、でも諦めなかった。その結果、今では周りから頼りにされたり、責任のある仕事をさせてもらえるようになった。人は変われるんだ。夢が叶うとは限らないし多分叶わないことの方が多いけど、それでも何かを諦めずに頑張れば人生はきっといい方向に向かうはず。だから皆も英単語を覚えるとか、部活を頑張るとか、バイトを頑張るとか何でもいいから少しづつ頑張ってみよう。夢を諦めることはあっても自分を諦めないでほしい。


最後の方は熱いメッセージが並べられていますが、実際には僕はそこまで熱い人間ではありません。ただ、この「先輩の話」を聞いて涙を流してくれる生徒も中にはいます。僕自身は進学校出身ですが、何故か定時制高校でこの話をさせてもらうことが多いです。

僕がカタリバに来て初めて「先輩の話」を聞いたとき、「自分にはこんな話できないな…」と思いました。当時の僕は自分には熱く語れることなど何もないと思っていたのです。しかし、これだけ遠回りや挫折をしておいてただの失敗体験で終わらせるのも勿体無いと思っていたのも事実でした。最初は伝えたいことをうまくまとめることができず、結局15分の話を完成させるまでに半年もかかってしまったわけですが、昨年12月に僕がコアスタッフ(企画副リーダー)を務めた定時制高校企画で初めてこの話を披露することになりました。生徒の反応は意外と良く、障害を抱える高校生が熱く感想を語ってくれたことを今でも覚えています。

僕はこの「先輩の話」を作って本当に良かったと思います。下手な就活セミナーの自己分析ワークの何百倍も徹底的に自分と向き合う経験が出来ました。カタリバでは「目の前の生徒にいかに本気で向き合うか」ということが常に問われていますが、他人と向き合う前にまず自分と本気で向き合ってみることが重要だと僕はサンプリングを作って痛感しています。残念ながらまだ自分としっかり向き合えていないキャストも少なからず存在しているわけですが、その話はまた後日書こうと思います。